きっかけはタイ vol.21
タイから繋がるライフストーリー
相原ユタカ さん
◆元プロサッカー選手 ユタカフットボールアカデミー代表
2019年
障がい者でプロの選手になった僕が
障がいをもつ子らに伝えたいこと。
Q あなたにとってのタイとは?
いちばん仕事をしやすいところ
Yutaka Aihara
1979年神奈川県藤沢市生まれ。兄の影響で小学2年生のときにサッカーを始めチームに参加。先天的に左腕の手首から先が欠損しているハンディキャップをかかえながらもプロ選手を目指し、タイ、バングラデシュ、ウガンダにおける初の日本人プロ選手となる。引退後、2009年にユタカフットボールアカデミーを設立し、在住日本人の子どもの指導をする。タイのろう学校、孤児院でフットサルを指導。2019年、障がい者が活躍できるプロフットサルクラブ「Y F Aシラチャ」を立ち上げる。
- サッカーを始めたのは?
小学2年生のときです。兄がやっていたので小学校のサッカーチームに入りました。毎日の練習が楽しくて、Jリーグはまだなかったのになぜかプロ選手になりたかった。プロがなんなのかわかってなかったのですね。高校までサッカーを続けて、卒業後は半導体関係の企業に就職し、4年目には働きながら所属チームを探しました。
- それでタイリーグに?
日本でJリーグのプロテストを受けようとしたけれど、どのチームも取り合ってくれなかったので、海外でプロになる道を模索していたら、たまたま知り合ったラオス人が、タイのサッカー協会に知人がいて、連絡を取ればチームのメンバーになれると言う。でもタイに発つ1週間前に先方から会えないと言われ、しかしすでに航空券を買っていたしもう行くしかなかったのです。事の発端となったラオス人の知り合いのまた知り合いがホテルに来てくれて、困っているならうちに泊まっていいと言ってくれました。

お世話になっていたコンドミニアムの前に荒れたフットサルコートがあって、仕事が終わる時間になると三々五々人が集まって試合を始めるので、僕もまぜてもらうことにしました。一番目立つプレーをしようと心がけてやっていたら、しだいに友達ができて、あるとき「お前がプロになりたい日本人か? 俺の親父がTobacco FC(タイリーグ)の監督を知っているから紹介してやる」という人が現れ、その監督の関係する地方大会に連れて行ってくれたんです。その試合で点をとって評価され契約することに。Tobacco FCでワンシーズンプレーしました。2003年のことです。月給ですか? 月1万2000バーツで、1回練習に行くと300バーツだったからトータル2万バーツくらいでしたね。
- その後は?
バングラデシュで9カ月、アフリカのウガンダで8カ月、初の日本人プロ選手としてプレーしました。


2022年のDeaf Kids Dream Futsal Team Project 第2回スポンサーカップ
僕が伝える意味
- フットボールアカデミーを立ち上げた経緯は?
実は当初、日本で障がい者サッカーの指導をしたいと考えていました。障がい者でプロサッカー選手になった人はいない。ならば自分が障がいをもった子どもたちに伝えることに意味があるのではないかと思ったからです。

障がい者サッカーには、目の見えない人のブラインドサッカー、手足の切断障がいをもった人のアンプティサッカー、車椅子サッカー、耳が聞こえない人のデフサッカーなどあるのですが、耳が聞こえないだけならプロを目指すことができるだろうと思い、サッカーを教えるために東京のろう学校の門を叩いたんです。ところが閉鎖的で、あなた誰ですかという対応。中田英寿なら別だったかもしれません。それで相原ユタカのブランド力を上げるために一旗揚げようと決意した頃、シラチャに日本人学校ができると知って、2009年にまず日本人向けのサッカースクールを立ち上げました。

2年後にバンコクのろう学校にサッカー指導の話をしたら、二つ返事ですぐに来てくれと言われて教えるようになりました。 教え始めてすぐにこいつらを日本に連れて行こうと思いました。日本の子どもたちにバンコクのろうの子のエネルギーを見せてやりたかったのです。

3年くらいかけて日本の受け入れ先を探して、東京のろう学校が引き受けてくれることになり、日本側の参加者は50人集まって、国際交流試合を行いました。翌年は日本の子どもたちをタイに招くことにして「子どもたちの視野を広げるためにも外国に行ってみませんか。来年この子らに会いに来てください」と言ったら、しぶしぶ5人だけ来てくれました。その翌年、僕らが日本に行くと、覚えている子たちもいて友達もできて、次は10人がタイに来てくれました
障がいのある子たちの活躍の場を広げたい
サッカーをやっている日本のろう者の子どもたちに将来の夢を尋ねたら、サッカーの日本代表になりたいと言う子がいなかったんです。もったいないじゃないですか。日本にはプロチームがあって、耳が聞こえなくてもプロを目指せるかもしれないのに。もっと活躍の場を広げられたらという気持ちがあって、日本の子たちがタイに来たときにプロサッカーチームを呼んで、サッカー教室をやりました。次に僕らが日本に行ったときには東京でイベントを開いてもらった。そうするうちに子どもたちの意識が変わってきて、急に上手くなった子が出てきました。話を聞くとプロサッカー選手になりたいと言う。ろう学校でしかサッカーをやってこなかったけれど、地元の健常者の子たちのチームに入るようになったと。一方、タイの子たちの中にもタイ代表になりたいと言う子が現れました。


2022年のDeaf Kids Dream Futsal Team Project 第2回スポンサーカップ
- フットサルクラブを経営されていると聞きました。
この子らが将来プロを目指す気持ちなら受け入れ先を作ろうと、2019年にシラチャのフットサルクラブの経営を買い取りました。障がい者が活躍できるプロフットサルクラブがコンセプトの「YFAシラチャ」です。健常者とろう者の選手を一から集めて現在選手は20名、うちろう者は4名です。
- 今後の活動は?
シラチャにホームグランドを作りたいですね。ホームアリーナを作って、地元に密着したイベントをして街おこしもできるような場所を。

もうひとつはすでに始動している、ろう学校と企業を繋ぐ活動です。生徒たちが自信をつけ自立できるように、就職率を上げるために、企業の方に学校に来てもらい、どんなスキル、人材がほしいか話していただいています。

今やっていることのすべてが、僕らを見て元気になってくれればという願いからです。僕ら自身が障がい者のシンボルになりたいと思っています。
- ありがとうございました。
取材・文/ムシカシントーン小河修子  写真/相原ユタカさん提供
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