きっかけはタイ vol.22
タイから繋がるライフストーリー
片岡朋子 さん
◆虹の学校校長
長男の4歳の誕生日
の家族写真
OLから国境の孤児院兼寄宿学校に。
虹の学校で夢をかなえる。
Q あなたにとってのタイとは?
夢がふくらみつづける場所
Tomoko Kataoka
1976年栃木県生まれ。慶應大学卒業。企業に5年間勤めた後、文部省の日本語教師派遣プログラムに参加して、ノンタブリー県の高校に赴任。その後バンコクの小学校で教鞭を執る。2010年、当時就学機会のなかった山岳民族の孤児や貧困家庭の子どもの教育のために創立された寄宿学校「虹の学校」の校長に就任。現在在学中の子どもは39名。ミャンマー国境付近に位置するカンチャナブリー県サンクラブリーに日本人の夫と2人の子どもとともに在住。
- どのような経緯でタイに?
大学卒業して5年ほど企業に勤めていたのですが、その間に大失恋をしまして、3日間寝込むような落ち込みで、そんな私が起き上がれたのは、家族がサポートしてくれたからでした。手を差し伸べてくれる人がいたから立ち直れたのです。私は他力本願というか、誰かに依存して生きてきたことに思い至り、自分には何ができるのか深く考えるきっかけになりました。

思案する中で、日本語教師になって海外で教えたいという高校時代の夢を思い出した頃、文部省が日本語教師派遣プログラムをやっていることを知りました。17年前のことです。学習期間は3ヵ月で、終了するとアジアの国に派遣されます。いくつかの東南アジアの国から任地希望することができて、迷わずタイを選びました。
- 理由は?
OL時代に池袋(東京)のタイ料理店によく行っていて、トムヤムヌードルがおいしくて大好きでしたし、タイマッサージも好きでした。それに失恋で落ち込んでいたときに、いとこが仏教系の集まりに誘ってくれたことから仏教に興味をひかれ学んでみたいと思ったことも一因です。

まったくタイ語がわからないまま空港に着いて、赴任先のノンタブリーの高校の先生が迎えに来てくれました。ムワッとした空気が印象に残っています。任期は1年で、その後バンコク市内の私立小学校で教えることになり3年半勤務しました。


上から時計回りに、稲作をはじめ農作業は大切な活動、「虹の戦士」公演、2023年1月にタイの社会開発・人間安全保障省から社会貢献賞を受賞、授業風景
国境の村で校長になる
- 虹の学校との出会いは?
日本語教師派遣プログラムで知り合った友人から、孤児院を訪問するスタディーツアーに誘われて、カンチャナブリー県のサンクラブリーに行ったときに、日本人僧侶の玉城さんにお目にかかりました。玉城さんは、孤児院のオーナーが作っている竹布などをフェアトレードで支援されていたのです。ご縁ができた玉城さんに私はこう尋ねました。「どうやったら世界の人が幸せになれるでしょう?」と。そうしたら「僕はわかるけど教えるのはやめます」。それは自分で探すものだと答えられました。

その後玉城さんは無国籍であるため教育を受ける機会のない子どもたちの学校を作り、そこで校長をやらないかと声をかけてくださいました。それが虹の学校です。私は即座にやりたいと答えました。自分の能力を最大限に活かすことができるし、山の中でサステナブルな生活を作っていけるのではないかと思ったのです。
- 当時の学校の様子は?
来た当初はカレン族とモン族の子どもが5人で、先生は私1人、大工さんが2人でした。孤児院の建物は竹造りで、その竹はくさってボロボロでした。使えない状態だったので、大工さんに少しずつ施設を作ってもらって生活できるようにし、授業をするという毎日でした。

当初は私が料理をしていたのですが、私が作った料理を子どもたちは食べなくて、残ったものを一人で食べていました…大工さんが作ると食べるんですよ。悲しくてバナナ畑で泣いていました。ネットでスタッフを募集すると、世捨て人のような人たちが集まってきましたが、献身的に働いてくれる先生たちにも恵まれて、2014年には学習センターとして登録。タイ教育省の初等教育課程に沿った授業を行い、カリキュラムを終了すると修了証を受け取れるようになりました。国籍がなくても初等教育の修了証をもらえるのです。

卒業後は虹の学校の寄宿舎から近くの中学に通って、高校に進学する子もいます。問題は、虹の学校の子たちは学力が高いのに、周辺の中学のレベルが低いので学力が落ちてしまうこと。それで虹の学校で補修授業をすることにしています。


創立15周年記念及び結婚10周年のお祝いの日に集まった生徒、先生、大工さん、親御さん、村の人たち、スタディーツアー参加の日本人の方々。2023年3月
大家族
- ご家族のことをお聞かせください
夫と2人の息子がいます。現在の場所に移転する前に、高知工科大学の先生に虹の学校のシンボルとなる土嚢の建物を建てていただいたときに、建築家である(後の)夫が現場責任者として常駐することになり、知り合って3ヵ月で結婚しました。彼は来て間もなくから、真っ暗闇のなかで一口お酒を飲んで体を温めて川に飛び込んで魚を獲ってくるような、生活の知恵と卓抜した技術のある大工さんたちを尊敬していて、そういう人なら共に生きていけると思えました。9歳と7歳の息子は虹の学校で学んでいます。
- タイ語での授業ですよね?
そうです。英語や算数などの授業は私も教えているし、お父さんは学校の建物を建設していて間近にいるので安心です。豊かな自然の中でのびのびと育ち、寄宿舎の子どもや大工さん、先生方と大家族のように暮らすことができて、ここで育てることが一番の幸せだと思っています。
- これからの夢は?
虹の学校は今、小学校課程のカリキュラムですが、いずれ中学高校、大学レベルの教育機関も作っていきたいと考えています。サンクラブリーに意味のある高等教育機関ができて、そこで教育を受けた人たちが先生になれば、各地の学校に送り出すことができます。アートセンターとしても機能させたいですね。虹の学校ではミュージカル教育も活発で『虹の戦士』というオリジナル作品を何度も上演しています。

世界が平和になればいいという気持ちは中学高校の頃から持っていました。その頃は実際には自分ごとではありませんでしたが、それを形にする方法が虹の学校だったのです。私は虹の学校で夢をかなえています。
- ありがとうございました。
虹の学校の詳細、活動報告、里親、ご寄付は下記サイトをご覧ください。
取材・文/ムシカシントーン小河修子  写真/片岡朋子さん提供
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