きっかけは
タイ
vol.30
タイから繋がるライフストーリー
直井里予
さん
◆映像作家・国際ファッション専門職大学専任講師
タイに生きる人々の生きざまを映す
ドキュメンタリーを撮る。
Q あなたにとってのタイとは?
様々なつながりを
もたらしてくれた場所
Riyo Naoi
1970年、茨城県生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士後期課程修了。1998年からアジアプレス・インターナショナルに参加し、2000年代はタイを拠点に北タイのHIV陽性者やミャンマー難民のドキュメンタリー映画を制作。主な作品に『アンナの道』『OURLIFE 僕らの難民キャンプ日々』等。最新作は『タイに生きて 報道写真家・瀬戸正夫の人生』(監督・撮影:野中章弘、直井里予)。著書に『うつる人びと−映像で語るカレン難民の少年との日々』など。
- 映像作家を志望したのは?
国際交流や異文化交流に興味があり、国際機関の仕事に就きたくてアメリカの大学院に留学したのですが、卒論を書いていた頃、小型のビデオカメラが普及し始めてゴルフ練習用に手にしました。そうしたらこれがおもしろい装置で、これなら自分で映像作品を作れるのではないかと思ったのです。
帰国後、アジアプレスという独立系ジャーナリスト集団の代表と出会い、先輩方に教えていただきながら見よう見まねでドキュメンタリーの制作を始めました。
- タイとの出会いは??
アメリカに留学した1994年のことです。大学は車がないと買い物もできない田舎町で、夏休み中だったので学食も開いてない。英語も満足に話せなくて途方にくれていたときに、何かと世話をしてくれたのが寮で出会ったタイの留学生でした。英語での授業だから彼らも大変なのに、どんなに忙しくてもご飯を食べる時間は絶対に取るし、どこか余裕があって、温かくて寛容。興味を引かれて、実際にタイを見てみたいと思うようになっていました。
初めてタイに来たのは1999年です。アジアプレス代表の野中章弘さんが瀬戸正夫さんを紹介してくださって、それから急遽タイ行きが決まりました。
-【瀬戸正夫さん】
1931年、タイ南部プーケットで日本人の父とタイ人の母の間に生まれた瀬戸正夫。8歳の時に日本人の義母と共にバンコクへ。「盤谷日本尋常小学校」で学び、敗戦後は難民キャンプでの抑留生活などを体験。父は戦犯容疑で逮捕され、瀬戸をタイに残したまま日本に帰国。出生届がだされていなかったため、日本政府は瀬戸を日本人としては認めず、32歳にタイ国籍を取得するまで無国籍者として生きることを余儀なくされた。戦後はバンコクでタイ語・日本語教師や水泳コーチなどで生計を立てながら、カメラマンとしても活躍。
『タイに生きて 報道写真家・瀬戸正夫の人生』ポスターより
タイで撮る
- 共同監督作品の『タイに生きて 報道写真家・瀬戸正夫の人生』の瀬戸さんですね。
渡タイした当初、瀬戸さんの家に居候してご飯を食べさせてもらい、タイ語学校に通いながら、カメラを教えてもらいました。3年の滞在予定でしたが、あっという間の10年でした。
左から野中章弘氏、瀬戸正夫氏、直井里予氏。2024年、日本人会本館にて
- その間、作品はどのように生まれたのですか?
タイはアジアの中でH I V 流行が最も早くから拡大し、同時に対策に成功した国でもあったので取材したかったのですが、なかなか対象者に会えませんでした。瀬戸さんに相談したところ、紹介してくれたのが北タイのパヤオ県で農村開発と青少年教育に取り組んでいる谷口巳三郎さんでした。活動の一環として農場の無農薬野菜をH I V陽性者に届けていたのです。取材させていただきテレビのショートドキュメントを作りました。
この取材を通してパヤオの病院で出会ったのがH I V陽性者であるアンナさんでした。3年かけてドキュメンタリー映画『昨日 今日 そして明日へ…』ができて、その続編として『アンナの道』を制作しました。タイ・ミャンマー国境の難民キャンプの取材もしていて、カレン難民の少年を追った『OUR LIFE 僕らの難民キャンプの日々』という作品も制作しています。
来タイ間もなくの1999年、クロントイスラムを取材
北タイ・パヤオ県で取材先の家族と
生きざまと人間性
- 瀬戸さんの撮影は?
居候していたときから撮っていましたが、方向性を決めて本格的に撮り始めたのは、赤シャツグループによる騒乱があった2010年からです。
激動の歴史の生き証人である瀬戸さんの生の声を残すという歴史的側面は共同監督の野中さんが担当しています。私が描きたかったのは生きざまと人間性です。
瀬戸さんは日本人学校時代の同級生と会う機会も多くて、そういう方たちの話は貴重でしたし、半世紀以上経っても同級生のコミュニティーがあり、仲が良く、お互いを支え合ううらやましいような関係性がありました。ご近所やタイ人の奥さん関係のつきあいも含めて瀬戸さんの周囲のコミュニティーはどういうありようなのか、人と人の繋がりとか関係性を描きたいと思っていました。
瀬戸さんはどちらかというと日本人といることのほうが多くて、楽しそうな表情をしていました。瀬戸さんと会うのはいつも日本人会の会館で、お昼は本館レストランTh e JA P A N 。瀬戸さんの指定席のような席があり、食後は必ず白玉あんみつを食べていました。
瀬戸さんは日本人として育てられてきて、いきなり国籍がないということが分かった。そのときの感情は想像もできません。32歳でタイ国籍を得ましたが、アイデンティティーのよりどころというのは果たしてどういうものなのか。そういう普遍的なところも描けるのではないかと考えています。
バンコクで反政府デモを撮影。2013年
瀬戸さんの後ろ姿
- 普段の瀬戸さんは?
毎朝、自宅からルンピニ公園まで10キロ、雨の日も走っていました。よく食べる方で、いつまでも食べ続けることができて、ドリアンだって丸ごと1個食べてしまうんですよ。食事がすむとすぐに自室にこもり、遅くまでパソコンを打つ。それなのに早朝から走るので睡眠時間は短い。あまりに人間離れしているので、病院で検査してもらったほうがいいんじゃない?と瀬戸さんに言ったほどです。
外ではよくしゃべるのに家では口数が少なく、厳しい方だけれどとてもやさしい。奥さんに対して声を荒げたりすることもありませんでした。
印象深いのは、机に向かって何か書いている後ろ姿です。いつも書いていて、テレビをぼうっと見ているようなことなどなかったですね。書き残すことは自分のためというより、自分のような思いを誰にもさせたくない、戦争は二度と起こしてはいけないというとても強い気持ちからだと思います。その信念が生きざまに繋がっているのではないでしょうか。
- 次の作品は?
瀬戸さんの養母テルさんの生涯をたどるドキュメンタリーを進めていて、つい先日も出身地の長崎県島原に取材に行ってきたところです。テルさんの部分を含めて『タイに生きて−−』を90分くらいの長編作品にまとめようかと考えています。
- ありがとうございました。
取材・文/ムシカシントーン小河修子 写真/直井里予さん提供