きっかけはタイ vol.5
タイから繋がるライフストーリー
田内 洵也 さん
多感な時期にタイで音楽をした。
そこから今の僕が始まっている。
Q あなたにとってのタイとは?
自分を変えてくれた場所
Junya Tauchi
1989年長野県生まれ、愛知県春日市育ち。父親のタイ赴任にともない中学1〜3年までバンコクの日本人学校中等部に在学。12歳でビートルズを聴いて感銘を受け、タイでギターを独習。在学中にバンコクでストリートライブを行う。日本の高校を卒業後、アメリカに2ヵ月の音楽修行。その後東洋大学に進学。在学中からライブ活動を行い、卒業後は都内を中心に年間300本以上の音楽活動をする傍ら、世界を旅しながら各国でライブを行っている。昨年アルバム『Guitarman』をリリース。
公式WEBサイト:http://tauchi-junya.com/ 
公式YOUTUBE:http://www.youtube.com/channel/UC-k3Wheop3N1faCBeMGYDg
ストリートライブ@バンコク
ー 音楽との出会いは?
12歳の頃、音楽好きの姉が持っていたビートルズのCDを勝手に取り出して聴いた「レットイットビー」に強い感銘を受けて、音楽に夢中になりました。その後、新聞記者をしていた父がバンコクに赴任することになったので、僕は中学1年の時から卒業までバンコク日本人学校に通ったのですが、しょっちゅう家でビートルズの真似事をしていたら、アヤさん(お手伝いさん)が、タイはギターが安く買えるから買ってあげたらと親に言ってくれ、中1の秋、初めてのギターを手に入れました。日本人学校では文化祭の前だけ学校にギターを持っていくことが許されていたので、買ってもらったギターを抱えていったら、僕のクラスの担任がたまたまギターを弾ける先生で、基本コードを教えてもらいました。
ー 初舞台は?
教本を読んで独習して、なんとか曲が弾けるようになった頃、当時毎年開催されていたカンチャナブリー県の乗馬キャンプに参加したのですが、その時です。友達がキャンプ場にギターがあるから弾けよと言う。それで初めて聴衆の前で演奏しました。その場にいたのは10〜15人くらいだったでしょうか。歌ったのはレットイットビーです。僕はそれしか弾けなかったですから。それでもすごく喜んでもらえて、感動してくれたんです。ものすごく緊張しましたが、人前でやる快感を初めて味わった瞬間でした。
日本人学校時代、休み時間にギター演奏。文化祭でも人前で演奏を。
ー それから頻繁に演奏を?
学校の運動会の応援団で仲良くなった先輩にギター好きがいて、音楽仲間ができて、日タイハーフのその先輩と連れ立ってクイーンシリキット公園やサイアムスクエア、チャトチャックの路上で演奏していました。初めて公園でギターを弾いた時「こういうことをしてもいいんだ」と驚いたことを覚えています。演奏すると、僕たちのような中学生であっても、タイの人たちは拍手をしてギターケースにお金を投げ入れてくれる。タイの人は音楽に寛容です。一番多い時には1,000バーツになったこともありましたが、普通はだいたい100バーツ程度。僕たちはそれでマックのハンバーガーを食べて帰ってきました。
取り柄のない生徒だった僕が日本人学校で褒められて
ー どんな生徒でしたか?
日本で地元の学校に行っていた時は、やりたいことがわからない、成績も最悪、部活もしていないという生徒でした。ギターなんてやるやつは不良というイメージもありました。ですがバンコクの日本人学校は、ギターを弾くことを肯定してくれた。それにギター以前に、音楽の先生が歌のテストの時、音程がしっかりしていると褒めてくれたんです。日本では何ひとつ褒められたことのなかった僕が。その時に得た自信がギターを始めるきっかけのひとつだったと思います。
高校は日本で、帰国子女の多い愛知県豊田市の南山国際高校に入学しました。音楽もダンスも当たり前のこととして校内にあるリベラルな学校で、学校や駅前でライブする日々。その中で音楽をやっていこう、この道で行こうと心を決めました。
卒業後は音楽の本場であるアメリカかヨーロッパに行きたかったので、ギターを教えたりして渡航費用を貯め、アメリカで2ヵ月過ごしました。19歳の時のです。帰国して2年後、東京の東洋大学社会学科に入学しました。敢えて音楽の大学を選ばなかったのは、音楽をやる人間は視野が広いほうがいいと思ったからです。それはアメリカの音楽修行で得たことのひとつでした。
大学時代は、夜は音楽関係者の集まるバーで演奏し売り込みをし、大物ミュージシャンや業界人の中にいて、昼は普通の学生というシュールな生活でしたが、その時に培ったコネクションが今の音楽生活のベースになっています。
バンコクと世界と音楽と
ー 音楽性の変化は?
ビートルズから始まり、J-POP、カントリー、ブルース、それからジャズやケルトミュージックに関心が移っていきました。アイリッシュなど土着の音楽に惹かれ、そういった音楽を自分なりに噛み砕いて取り込んできたのが今の僕の音楽だと思います。現地に行って聴き、自分でやってみて、息づかいやリズムを体感して自分なりのものにしてきました。5年前にアメリカであるフランス人と知り合い意気投合し、ヨーロッパに行く時には彼がナビゲートしてくれます。今年も6月にフランスを皮切りにポルトガル、スペイン、ギリシャをまわり、地元のパブやライブハウスで演奏してきました。ヨーロッパ人にとって音楽は特別なものではないんですね。音楽に対するその感覚はタイと同じ。バンコクの感覚が世界基準なのだと思います。もし僕が音楽を始めた時期にバンコクに住んでいなかったら、世界に出ていく人生はなかったかもしれません。公園で演奏するとどこの人間であろうが関係なくタイ人も欧米人も音楽を聴いて拍手してくれる。今の自分はタイで音楽をしたことから始まっています。人生の多感な時期を過ごし、それまでとは違う自分になれました。バンコクはそういう特別な場所で、母国くらいの気持ちがあります。また、タイに住んだことによって、日本人としての自覚、誇りを持ちました。それは世界各国でパフォーマンスをする上で、とても重要なことです。強いアイデンティティーを持っていないと、言葉の壁を超えた音楽はできないと思います。
写真① : 6月3日、旅の始まり。ジュネーブとリヨンの間にあるフランスの田舎町の駅で  
写真② : アメリカのナッシュビルで知り合ったフランス人の友人とイカリア島に向かうフェリーで
ー これからの夢は?
音楽があったから僕は人と繋がることができました。今、自分を支えてくれるお店や地元の人たちに喜んでもらえるようなミュージシャンになりたいです。日本を拠点に世界を巡り、死ぬまで音楽をやっていけたら幸せですね。音楽によって旅する人生を全うしたいです。
ギリシャのイカリア島で。リスナーは島民と観光客
ー ありがとうございました。
取材・文/ムシカシントーン小河修子  写真/田内洵也さん提供
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